The Makurazaki City Medical Association
枕崎市には、カツオ漁の基地として日本でも1、2を争うカツオの水揚げ量をほこる漁港があり、カツオ節の生産地としてその名を知られています。又、台風のメッカとしてもよく知られており、「台風銀座」の愛称でも知られます。
この風光明媚で四季の移り変わりの鮮やかな町で、枕崎市医師会は、疾患の治療のみならず、市民の健康管理、成人病予防教育等にも力を入れており、地域医療の中核として活動しています。
私ども枕崎市医師会の今日は、たくさんの先輩の先生方のご努力により形づくられてきました。ここに簡単に紹介したいと思います。
■ 枕崎市医師会発足以前の概況 ■
明治より大正にかけての医師会に関する記録は、枕崎市史に簡単に記されてある。枕崎市史は、森節義先生らの談話によってまとめられたもので、それによると明治初期の医師はすべて漢方医で次の方々であった。(敬称略)
成田宗淳 平田吉之助 平田哲斉 貴島健 山元助安 毛利薩雄 森稍
その後の明治時代の医師としては、つぎのごとくであったが、はっきりした医師会の形をなしていたかどうかは不明である。
貴島衆助 原田直吉 小田原誠一郎 今給黎可止 吉嶺久吉 今給黎兼篤 内田八郎 緒方唯彦
今給黎慶之助
大正時代になると、さらに医師の数も増えている。その先生方は次の通りである。
久木田昌俊 原 耕 岩元七郎 森節義 尾辻彦二 尾辻清久 長野文夫 国見儀作 家弓禎三
小田原友志
大正4年11月10日、東南方村医師会は御大典記念に松44本を植えつけたという記念碑が残っているが、当時、すでに医師会が結成されて、医師会活動がなされていたものと思われる。東南方村とは、枕崎市がまだ村であったころの名称である。大正4年の東南方村医師会のメンバーは上記とほぼ同様である。
昭和の初めより、枕崎市医師会発足(昭和25年2月)迄については、平田高保先生が詳しく書いておられる。以下、先生の記録に基づいて概説したい。
平田高保先生が開業された昭和2年4月前後の医師会員は次の如くである。
久木田昌俊 岩元七郎 今給黎慶之助 吉嶺久吉 原田瞭 内田八郎 原 耕 原千代子 尾辻彦二
尾辻清久 国見儀作 久木田正夫 森節義 赤崎安富 勝目氏 橋口実志 野上武雄 平田高保
この2・3年後に、園田実治 小原照雄の両先生が前後して開業された。
枕崎町医師会は川辺郡医師会に属して、枕崎支部になり、幹事がいて、医師会の世話や連絡に当たっておられた。郡医師会長には、枕崎医師会より、久木田昌俊・尾辻彦二・森節義3先生がなられた。平田先生は昭和20年4月2日に幹事になられたが、昭和20年11月8日、園田実治先生と交代しておられる。平田先生の前の幹事は尾辻清久先生であった。平田先生は、昭和22年12月、郡医師会の理事になられたが、昭和24年2月、尾辻和夫先生と交代された。尾辻和夫先生が郡医師会役員の最後となられたことになる。
枕崎町医師会は、郡医師会とは別個に、単独で、満月会との名称で会合を開いて、会員間の親睦を計るとともに、医師会の色々の事柄を協議する場にもしておられた。この満月会は、今なお現在に引き継がれている。
郡医師会も医学会も盛大であったが、枕崎町医師会単独でも、例えばレントゲン研究所を会員共同で設立して、(昭和10年9月)県立病院放射線科縄田千郎部長をお招きして、最新の医療技術の研修に熱心であった。最近「単位医師会は共同利用施設を持とう」と叫ばれ続けているが、戦前すでに、先輩方はレントゲン研究所という共同利用施設を持って、医学研修の場、グループメディシンの場とせられていたことは特筆に値しよう。医師会病院の育成を強調される日医武見会長もこの事を知ったら感心されるのでは無いだろうか。
医師会旅行も、毎年1〜2回は行われた。九州医師医学会等にも挙って出かけられた。旅行はとても愉快なものであった。
予防接種も現在のように、医師会で担当した。芸者酌婦の検梅も行い、性病予防にも努めた。昭和5年3月より11月にわたって、腸チフスの大流行があり、患者180名余、死者18名の多きに達した。会員は献身的に防疫に尽力した。当時は現在のような上水道はなく、大きな共同井戸を使用していた。これが伝染率を高くしたものである。クロマイ等抗生物質もなく、治療は困難をきわめた。
昭和12年7月 | ・日華事変勃発。 |
昭和13年9月 | ・町医師会は国民総動員に参加する決議をなす。 |
昭和13年10月 | ・医師職業能力申告書を警察署に提出する。 |
昭和14年9月 | ・健保座談会が小学校にて開催される。 |
昭和16年9月 | ・尾辻和夫先生が教育召集される。 |
昭和16年12月 | ・太平洋戦争に突入。 |
昭和17年8月 | ・母性保護医協会結成式が鹿児島市で催される。 |
昭和17年9月 | ・吉嶺広吉先生が平田病院に勤務される。 |
昭和17年11月 | ・町医師会は結核療養所設置誘致運動を積極的に行うも成功せず。 |
昭和18年1月 | ・健保診療始まる。 |
昭和18年5・6月頃 | ・枕崎町救助要員となる。特殊技能登録を町役場に提出する。国民体力管理打ち合わせ会催される。 |
昭和19年2月 | ・国民健康保険診療始まる。 |
昭和20年1月25日 | ・マレイ丸、久志沖に沈没し、森節義・平田高保・小原照雄3先生は遭難部隊員の救出に向かう。 |
昭和20年3月18日 | ・この日以来、枕崎は空襲に見舞われる。 |
昭和20年7月29日 | ・枕崎大空襲により死者42名、2315戸を焼き尽くし、市街地の9割は焦土と化す。医療機関もほとんど壊滅す。幸いに、園田病院と尾辻病院本宅は戦災を免れる。 |
昭和20年8月15日 | ・終戦。その後復員して入会された方は、松田文夫・竹迫次男・松下紀文、等の先生方である。 |
昭和22年8月下旬 | ・川辺郡医師会総会開かれる。9月頃、枕崎町内のマラリアに対する進駐軍の調査あり。 |
国保は戦後の混乱により昭和22年7月についに運営を中止した。
昭和23年4月 | ・枕崎歯科医師会と合同で再開を要請し、昭和23年5月運営は再開された。ただし、毎年赤字のため、支払い延べが続き、各医療機関は経済的に困窮した。 |
昭和23年9 月 | ・国保運営協議会が発足し、医師会から、森節義・平田高保・小原照雄・松下紀文・吉嶺広吉、の各先生が加わった。 |
昭和24年1月 | ・優生保護指定医指定書の交付あり。 |
昭和24年9月 | ・枕崎町は市制を施行し、枕崎市となる。 |
昭和25年2月15日 | ・枕崎市医師会発足。 |
<枕崎市医師会 30年のあゆみ
(昭和54年11月発行)より>